2006/12

いじめ自殺問題

 このところ、学校でのいじめ・自殺問題が新聞やテレビで取り上げられない日はほとんど無い。議会でもこの問題に関する関心は高く、かくいう私も平成18年度の第4回定例会でこの問題について一般質問を行った。他にも3名の議員が同じ問題を扱ったことからも、この問題が「旬」の話題であることがうかがわれる。
 「旬」の話題であるからには、来年の選挙を目前に控えた議員にとって、この問題を取り上げることは良い宣伝になると思われる。だが私には、この問題を政治的な宣伝材料にしてよいとはとても思えなかった。これは深刻な問題なのだ。
 そこで私は、宣伝に利用されることのないよう他の議員に先じて一般質問を行おうと考えた。だがそれだけでは、私が宣伝に利用していることと同じになる。だから、十分に調査し議論を深めて、中身の濃い答弁を得られるように準備した。
 多数の文献を読み、関係者へのヒアリングを繰り返した結果、2つの興味深い事実にたどり着いた。

それは、
  1. 当事者たる子ども達・保護者・教職員のそれぞれがいじめ問題について異なる見解を持っている。
  2. 大人達は、いじめ問題について「本質はこれだ、原因はこうだ」という調子で一つの要因に絞りたがる。
である。

 特に気になったのが2番目である。なぜか、「いじめの原因は○○○だ」とか「私は○○○と考えている」と断言したがる人間が多かった。議会での発言も同様であった。
 原因を断じる発言は、たぶん快感なのだろうと思う。よくテレビなどで世相を「斬る」とか悪政を「斬る」というシーンが見られるが、あれと同じで言葉で斬るという行動で快感が得られるということなのだろう。
 しかし、私には納得がいかなかった。あるいじめ自殺が起きた自治体の教職員にヒアリングしたときの言葉が引っかかっていたからだ。それは「類型化しすぎている」というものだった。
 いじめられやすい子どもの傾向、いじめが起きやすい環境、いじめがエスカレートしやすい人間関係、などいじめについて文献調査を繰り返し、分厚い資料を整備した私もまた情報収集と分析することにより「斬る」快感にとらわれていたのだと思う。
 いじめは一つだけではない、いじめられている子どもは一人だけではない、同じ状況などひとつして無く、原因も一つだけとは限らない。大きな要因、小さな要因が集まり「その時の原因」を形作っているのだ。
 原因を一つの要因に絞って議論をするたびに、真実から遠ざかっていくような気がしてならない。