それが問題だ!

 私が中学生の頃、学校祭での演劇にハムレットが上演されたことがある。今にして思うと中学生ごときにハムレットなど、ただの無謀な試みのような気もしないでもないが、とにかく当時は皆気合いが入っていた(と思う)。
 配役を決めるに当たって、我々は最初に主役をだれにするかを話し合った。私を含め数名が推薦を受けた(私を推薦したのは誰あろう私自身である)。当然の結果として謙虚な私は選ばれず、親しい友人がその座を射止めた。友人に道を譲った私は(そうだ譲ったんだ)劇中劇の座長という配役に落ち着いた。わき役に甘んじることになったわけだが、これがまた楽しかった。この劇中劇というのは、悪逆非道なクローディアス王が、前王を毒殺するシーンの再現をその本人の前で演じるというなかなか悪趣味な趣向で(ハムレットの性格の悪さがうかがわれる)、その劇中劇でのクローディアス王役が座長、つまり私だったのだ。これがまた楽しかったのだから、どうやら私は悪役好みらしい。
 ところで、前出の悪趣味な主人公ハムレットだが、彼の有名なセリフに「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」がある。悪趣味な性格にしては随分と深刻になったものだが、このセリフ、生か死か、白か黒か、勝利か敗北か、正義か悪かといったような二元論を暗に示しているように私には聞こえるのである。中間があってもよいではないか、と謙虚な私は思うのだが(では生と死の中間とはなんだろう?)、よく考えてみるとこの二元論によって確立している重要な技術があるではないか!
 あるかないか、つまり1か0かの技術。ディジタルである。
 御存じの読者も多いだろうが、コンピュータの設計思想はディジタルで成り立っている。ディジタルの基本的な考え方は、非連続性である。これに対する考え方はアナログ、連続性という考え方である。このディジタルとアナログ、非連続性と連続性の違いとはなんだろう。古来より、自然の万物は滑らかに変化するものと捉えられていた。たしかに、昼から夜には滑らかに変化し、明るい空が午後5時を過ぎた途端に突然、暗くなるということはない。このように滑らかに変化し、継目が無い状態がアナログである。こういった滑らかな変化の度合いをアナログ量と呼ぶことにしよう。では、どうやってアナログ量で物事を測ればよいのだろう。
 例えば、人類がまだ洞くつで暮らしていた約6万年前には時間の感覚は昼、夜だけだったと思う(調べたわけではないが)。そして、この2つの状態がそれぞれ1回ずつ過ぎると1日になる。と、この程度の時間感覚だったかもしれない。だが世界最古の都市がカナン(Canaan)(註1)のエリコ(Jericho)で形作られた約1万年前では、このあいまいな2つの状態だけを単位として用いるのも不便だろう。まあ、仮に朝、昼、夜という3つの状態に細分化したとしよう(我々現代人も感覚的にはこの時間単位に頼っていると思う)。では朝とはどこからどこまでなのか。昼は? 夜は? それ以前に、1日とはどこから始まるのか。日出を1日の初めとする意見もあるかもしれない(古代エジプト人達がそうだ)。日没を初めとする意見もある(古代のユダヤ人達だ)。しかし、先に述べたように、突然明るくなったり暗くなったりするわけではない。全ては少しずつ変化しているのだ。我々が1日というものを考える時、必ずどこかの瞬間をもって区切りを付けなければならないのだ。
 ここで、ディジタルという考え方が出てくる。1日を越える時間を考える時、それを「何日間」と捉えるのである。ある時点から、1日ずつ日付を付けていくとして、それは「1日、2日、3日・・・」と続くことだろう。継目のない昼夜の変化の繰り返しを1日という単位で「区切っている」のである。無論、当時の人々はディジタルなどということは考えもしなかっただろう。だが我々が時間というものを「正確に」知ろうとする時、アナログ量ではけっして捉えられないのだ。
 さて、時間を1日というディジタル量に直すことができた。だが、この1日というあいまいではないが大雑把な単位だけで果たして満足できるだろうか? 少なくとも、私には全く不足している(読者の大半もそうだろう)。では、1日を24等分して、「時」という単位はどうだろう。これなら、少しはましだ。だが約4,000年前までチグリス=ユーフラテス川流域で栄えていたシュメール人達(註2)にとっては、これでも決定的に不足していたようだ。彼らはさらにディジタル化を推し進め、「分」どころか「秒」という単位まで作ってしまった。しかもこれは60進法によって立つ時間体系である。60秒で1分、60分で1時間、24時間で1日である。なぜ、60進法なのか? どうやら、シュメール人達の数学は未発達で、分数があまり扱えなかったようなのだ。よって、なるべく約数の多い数を基数とした訳だ。  「秒」というところまで細かくされては、不足することはあまりないだろう。秒刻みで生活している者などそうざらにはいない(放送関係者ぐらいか)。そのため、秒刻みで時間を示された場合、大半の人々は「正確だ」と感じるだろう。だが、これは「正確」なのではなく「生活していく上で十分に正確」なのだ。なぜなら、1秒とその次の1秒の間には無数の中間の値があるはずだからだ(なにせ滑らかに変化しているのだから)。
 以上の事が示しているのは、我々にとって継目だらけのディジタル量であっても、その継目の大きさが十分に小さければそれを連続した変化として捉えてしまうという事実である。そして、アナログ量は感覚的には理解できるが、それを記録したり伝えたりする時にはディジタル量に変換しなければならないのだ。これらはなにも目新しい考え方ではない。物事を正確に捉えようとする時には次のように言うことがあるはずだ。「数字に置き換えて」と。
 現在、いろいろなものにディジタル的な区切りが付けられている。時間や距離、果ては色にまで(カラーチャートがそうだ)、とにかくなにかを正確に伝える手段としてそれらは付けられているのである。
 これはコンピュータにとって大変都合がよい。なんといってもコンピュータは数字、しかも2進数しか扱えないのだから。なぜコンピュータが2進数しか扱えないのか、という説明はまた別の機会に譲るとして、2進数を10進数に変換することは面倒であっても困難なことではない(手間がかかるだけだ)。よって、コンピュータは間接的に10進数を扱えることになる。10進数が扱えるということは、数字に置き換えることが可能なことなら、なんでも扱えるということになる。
 事実、文字も色も、さらには音さえも数字に置き換えることによりコンピュータで扱えるようになっているのだ。問題はどこまで細かく数字に置き換えるかということになる(そうだそれが問題だったのだ)。例えば色だが、かつては2色しか扱えない(当然白と黒だ)時代があった。これなら色に番号を付けるとしても、0と1があればよいことになる。その後、8色まで使えるようになったが、これでも0から7までの番号があればよい。だが、白から黒までの間に全部で8色だけでは、まったく自然には見えないだろう。では、何色あればよいのだろうか? 現在、平均的なパソコンが表現できる最大の色数は約1,677万色である。これだけあると、となりの番号の色との違いは微々たるもので、色の継目を肉眼で確かめることはほぼ不可能である。
 音もまた同じで、音楽用CDでは音声をディジタル化する方法としてPCMと呼ばれる技術を用いている。音という現象は空気やその他の物質を振動として伝わる波であるが、その波の形を数値の集まりとして再現しようというのが、このPCMという技術である。具体的には、1秒間を44,100等分に区切って(サンプリングという)、それぞれの単位時間ごとの音の振幅を0から65,535までの数値として記録するという方法で表現している。結果として1秒間の音声は44,100個の5桁の数値の集まりとして表現される。1つの区切りが44,100分の1秒になるので、これを聞き分けることはやはり不可能であろう(註3)
 区切りを見分けたり聞き分けたりすることが不可能なら、それは人間にとって継目のない連続した状態と事実上同じになる。だが、たとえ観測不能なほどの微細な量でも区切りや継目がある以上、それらの間に挟まれた中間値は無視されたことになる。だから、ディジタル量を用いる限り常に無視された中間値の分だけ誤差を含むということになる。だが、その誤差を人間にとって区別できないほど小さくすることにより、(人間にとっての)アナログ量を再現するのである。
 近年、ディジタル的な生き方や考え方という話を耳にすることが増えてきている。これらの思想は私にとって非常に奇異なものに聞こえる(私にとってディジタルやアナログとはただの表現方法の違いに過ぎないのだ)。ディジタルは新しく、アナログは古いといったような話も聞く。だが、ディジタルとは究極的には人間にとってのアナログを記録し、再現するための技術であり、無限にある中間値への果てしない挑戦でもある。冒頭のハムレットを引き合いに出すなら、生と死の間に無数の生き様を見いだすためのミクロな生と死の集まり、それがディジタルとアナログの関係だと私には思えるのである。

(註1)現在のパレスチナ。
(註2)シュメール人達は他にも多くの技術的文化的功績を残した。だが、彼らの歴史の多くは失われ、現代の我々はただ感謝することしかできない。
(註3)レコードとくらべCDは音質が低下したという意見もあったが、これは別に理由がある。残念だがここでは説明しない。